キングダムにも登場する一商人から秦の相国の地位まで昇りつめた呂不韋。
当然史実にも呂不韋は登場しています。

キングダムで長い間、政と戦いを繰り広げてきた呂不韋ですが、史実ではどのような活躍をみせてきたいのでしょうか?

今回はその史実をみていきたいと思います。

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呂不韋の史実

呂不韋と子楚との出会い

呂不韋は元々商人の子。
自身も商人として若くして、莫大な富を築いていた。

ある時商人として趙に渡った際、邯鄲で秦の太子・安国君の子である異人(子楚、後の荘襄王)と出会う。


安国君は秦の昭襄王の子。
しかし異人の母親は安国君からの寵愛をすでに失っており、異人は秦国にすでに見限られた存在。

さらに当時の秦と趙の関係は悪化の一途をたどっており、いつ命の危険が及ぶかわからない状態だった。


呂不韋はその異人を見たときに

奇貨居くべし
・・・珍しい物を手元に置いておけば、後々大きな利益をもらたす

と考えます。


呂不韋の狙いは異人を秦王に即位させ、権力を牛耳り、巨万の富を得ること。
異人もこのままでは自身の身が危ういことから呂不韋の計画に協力します。

子楚が次期王位継承者となる

呂不韋は安国君の寵姫の華陽夫人に近づき、異人が慕っていることを告げ、私財も投じて、養子にさせるように仕向けました。
華陽夫人には子供がいないことに目を付けた呂不韋。
このままでは自身の地位が危うくなると考えた華陽夫人も異人を養子として招き入れることを決めます。

安国君も異人が養子になることを認め、異人は世継ぎとなります。
そして名前を子楚と改め、趙国から秦国へと戻ります。


呂不韋は当時趙の趙姫を寵愛していたが、子楚が趙姫を気に入り、彼女を差し出した。
このときに趙姫は呂不韋の子を身籠っていたという説もあるが、定かではない。

呂不韋が秦の丞相に

秦国では紀元前252年に昭襄王が崩御。
王に即位したのは孝文王(安国君)。

しかし孝文王は正式に王に即位した3日後にこの夜を去ってしまい、新しい王は子楚となり、荘襄王が即位した。
そして呂不韋は秦の丞相となった。

呂不韋の長期に渡る計画は見事に成功。

商人生まれの呂不韋が秦国の丞相と大出世を果たした!

以後長期に渡り、呂不韋は秦国の権力を握ることとなります。

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呂不韋は相国の称号を与えられる

紀元前246年荘襄王が崩御。
荘襄王が王となって、わずか三年のことでした。

次に即位したのが太子の政。
政が秦王となると

呂不韋は相国という称号をさらに与えられます。

呂不韋は食客三千人・使用人一万人、そして洛陽に広大な土地を与えられるなどますます力を増していきます。

『呂氏春秋』の完成

呂不韋は食客の中から選りすぐりの人物たちを集め、紀元前239年『呂氏春秋』という書物を完成させます。
『呂氏春秋』は現代でいう百科事典のようなもの。

『呂氏春秋』の出来に自信を持っていた呂不韋は咸陽の中心街に並べ

一字でも増減できる者がいれば千金を与える

と触れて回っていた。
これがきっかけで生まれた言葉が「一字千金」

現在「一字千金」の意味は優れた文章のことを指します。

嫪毐の乱で失脚

呂不韋がかつて寵愛していた趙姫は太后となっていた。
荘襄王が亡くなり、太后は呂不韋を誘い、二人は関係を戻していた。

しかし今や趙姫は秦国の太后!
露見すると危険が及ぶと考えた呂不韋は嫪毐という男を後宮に送り込んだ。

太后の後ろ盾を受けた嫪毐は力を増していきます。


呂不韋に次ぐ勢力となった嫪毐でしたが、ついに政に太后との関係を知られてしまいます。
政が加冠の儀で咸陽を出た隙を付き、反乱を起こす。

しかし事前に計画を察知していた政は昌文君・昌平君に命じて撃退。


嫪毐は車裂きの刑
太后は雍に幽閉
太后との子供も処刑された。

そして嫪毐の乱は呂不韋にまで罪が及び、呂不韋は失脚。

呂不韋の最後

失脚した呂布だったが、その後も呂不韋の元へ来る食客が止まることはなかった。
反乱を恐れた政は呂不韋を蜀地域に流刑に処した。

呂不韋はいずれは政に殺されるであろうことを悟る。
そして最後は紀元前235年呂不韋は自ら毒をあおり自害。

さいごに

キングダムでは長年政と戦いを繰り広げてきたことが印象的な呂不韋。
その呂不韋は史実では毒をあおり自害という最後を遂げました。
キングダムでも同様の最後を迎えました。

一商人から秦の相国にまで昇りつめた手腕は確かなものでしたね。
失脚するまでは本当に呂不韋の手の平で全員動かされているようでした。

呂不韋は長年に渡り、活躍する人物のなので、呂不韋を知るとキングダムがより楽しめると思いますよ。

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