が紀元前235年に悼襄王が崩御し、次の王に即位したのは末子である幽繆王(公子遷)。
幽繆王(公子遷)はキングダムでも645話で初登場しました。

キングダムではいかにも暗君のような描かれて肩をしていましたが・・・
史実でも幽繆王(公子遷)はこのような王だったのでしょうか?

その幽繆王(公子遷)の史実ではどのような活躍をみせて、どのような最期を遂げるのでしょうか?

今回は幽繆王の史実を中心にみていきましょう!

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幽繆王の史実

幽繆王の出生

幽繆王(公子)の父親は悼襄王と母親は悼倡后。
母親の悼倡后は元々は寡婦であったが、悼襄王が気に入り、朝廷に招き入れた。
その後公子遷が生まれる。

趙では悼襄王の嫡長子の公子嘉が太子で、次期王になる予定であった。
しかし悼倡后は悼襄王の寵愛を受けており、また王后と公子嘉のことを讒言したことにより、その座を奪われ、公子遷が太子・王后が悼倡后となった。

公子遷が王に即位

紀元前236年悼襄王が崩御。
公子嘉に変わって、太子となっていた公子遷が王に即位した。

キングダムでは悼襄王が亡くなった時の太子は嘉でした。
史実では太子は遷にすでに変わっていたため、史実とは少し異なりますね。


そして悼襄王の死。
キングダムでは悼襄王の死は毒殺?として描かれていますが、史実では悼襄王が亡くなったことだけ記されています。
そしてかなりのインパクトを残したのが、公子遷の初登場!!

人を人とも思っていないような扱いをしており、暗君になりそうな予感がプンプンしていましたね。

李牧を大将軍に任命

趙は紀元前236年鄴や閼与を奪われ、その後も秦軍に領土を奪われていく。

紀元前234年には秦軍は平陽・武城が陥落。
この戦いで扈輒将軍が討たれ、大敗を喫してしまう。

そこで幽繆王は李牧を大将軍に任命。
趙国の立て直しをはかった。

キングダムでは三大天となり、王騎を討つなど活躍している李牧ですが、史実では以外にも紀元前234年に大将軍となります。

李牧を武安君に封じた

大将軍に任命された李牧は紀元前234年に趙に侵攻する秦軍と激突。
秦の桓騎将軍を討つなど勝利を収めた。

李牧はこの功績により、幽繆王から武安君に封じられた。

秦の侵攻に対して、李牧と司馬尚に応戦させる

紀元前229年秦は王翦・楊端和・羌瘣で大軍を率いて、趙に侵攻。
李牧と司馬尚に迎え撃たせた。

秦軍は李牧と司馬尚が率いる軍に苦戦する。

幽繆王が李牧を処刑・司馬尚を更迭

李牧と司馬尚に苦戦する秦軍は二人を戦場から取り除くことを画策。
郭開に賄賂を贈り、幽繆王に讒言させた。

幽繆王は李牧と司馬尚が謀反を起こそうとしているという讒言を信じて、李牧は処刑・司馬尚は更迭させられた。

そして李牧と司馬尚の代わりに趙葱と顔聚を任命した。
しかし王翦率いる秦軍に大敗する。

幽繆王の最期

紀元前228年秦軍がついに邯鄲を包囲。
幽繆王は秦軍に降伏。

その後幽繆王は捕えられて、房陵に流された。
これにより趙は滅亡した。

さいごに

幽繆王は史実では暗君として、歴史に名を刻まれています。
その原因は郭開を重用し、李牧を処刑、司馬尚を更迭してしまったこと。

幽繆王が秦に買収されていた郭開を信じて、李牧を信じ切れなかったことが趙が滅亡する原因となってしまいましたね。


紀元前229年王翦・楊端和・羌瘣は李牧と司馬尚に苦戦を強いられていました。
そのまま李牧と司馬尚を将として、戦わせていたら、趙の滅亡はきっともっと後のことだったかもしれません。

無実の罪で幽繆王に処刑される李牧・・・。
キングダムでは李牧は非常に悲しい最期を迎えそうです。

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