キングダムで紀元前236年に急死した悼襄王。
その悼襄王は最後壮絶な死を迎えました。
病弱だった悼襄王ですが、その死因は明らかに病死ではなく、毒殺!!
犯人は誰なのでしょうか?
李牧が翌日に処刑されるということから、犯人は李牧一派というのが妥当だと思います。
今回は悼襄王の最後をみていきましょう!
また死因や犯人についても言及していきたいと思います。
悼襄王の最後
秦の鄴侵攻の報が悼襄王の元に届く
紀元前236年総大将王翦・楊端和・桓騎率いる二十万の軍勢が趙へ侵攻。
これに気づいた李牧は王都・邯鄲に鳥を送ります。
李牧は王都・邯鄲の軍を列尾に送り込むように進言。
悼襄王は邯鄲の軍は王を守るためにあると出陣を拒否。
そして悼襄王は斬首ものの失態を犯したと李牧を非難し、現在の居場所を胡周に確認した。
そのため趙軍は邯鄲軍ではなく、鄴と周辺から兵をと集め、秦軍を迎え撃つこととなった。
悼襄王に李牧が謁見
列尾を落とし、王都圏内に入る秦軍。
李牧は悼襄王に謁見します。
李牧は悼襄王に邯鄲軍十万の出陣を懇願します。
鄴が陥落すれば、数年後には王都・邯鄲へ秦軍の侵攻を許すことになる。
しかし悼襄王はこの李牧からの要請を再度拒否。
もし鄴が陥落し、邯鄲に秦が攻めてきたとしても、その頃には体の弱い自分はすでに亡くなっていると。
国・民など後のことなど知ったことか
という悼襄王からの言葉を聞いた李牧は趙に絶望する。
悼襄王は最後に鄴を陥落させてたら、李牧や従者などすべての者を皆殺しにすると李牧に伝えた。
悼襄王の命で李牧を拘束
鄴が陥落し、鄴攻めは秦の勝利で幕を閉じた・・・
かに思われたが、鄴には兵糧が残っておらず、秦軍は飢えていた。
そんな中、李牧の元に王印の騎士団が現われて、王命で李牧を拘束する。
李牧は秦本土からの補給を阻止するが、斉が水路うという王翦の策を読み切れず、鄴に兵糧が届くのを許してしまう。
悼襄王は李牧を邯鄲の牢に閉じ込めた。
そして李牧の斬首が決定した。
悼襄王の最後
李牧の処刑が決定的となり、側近たちは李牧を取り戻そうと武力行使に出る。
それを朝廷側は迎え撃ち、趙は内戦状態となっていた。
悼襄王の子である太子嘉も必死に李牧を解放するよう説得するが、聞く耳を持たない。
秦軍にも李牧処刑が伝わる中、悼襄王はいつもの桃泉殿で風呂に入っていた。
そして
悼襄王は飲みすぎのため、風呂を上がろうとする。
すると突如ズキンと胸が痛み出し、その場に倒れこんでしまう。
苦しむ悼襄王は子供たちに医師を呼べと言うが・・・
誰一人動かずにクスクスと笑いすら浮かべていた。
悼襄王は口・目・鼻など体の至る所から血が噴き出す。
そして「貴様ら」と最後の言葉を残して死亡した。
悼襄王の死因は?
紀元前236年に急死した悼襄王。
キングダムでは病弱という設定がありましたが、死因はどう考えても人の手によるもの。
毒を盛られてしまったというのが妥当でしょう。
そのため死因は毒殺と思われます!
史実でも悼襄王は紀元前236年に亡くなっています。
ただその死因は不明のようです。
悼襄王を毒殺した犯人は?
悼襄王の死因は病死ではなく、毒殺と思われます。
このとき翌日には李牧の処刑が控えていました。
そのため
李牧一派が犯人ではないか?
という見方をしていたようです。
タイミングとしてはどう考えても李牧一派が犯人っぽいですね。
ただ李牧一派は直接手を下せる位置にはいなかったため、桃泉殿でいつも一緒に風呂に入っている子供たちを使ったのだと思われます。
酒を注いでいるのを見ていた子供たちの目がすでに怪しかったようにも思えます。
また悼襄王が苦しんでいた時にも医者も呼ばずに、笑いすら浮かべていましたからね。
悼襄王が死亡することを知っていたのでしょう。
その上で李牧一派の中で犯人は・・・舜水樹が怪しそうですね。
李牧の処刑を聞いたときの舜水樹は使者に刃を向けるなど冷静な状態ではありませんでした。
そして王を始末してでも李牧を助ける!
と言っていたのも舜水樹。
その舜水樹がカイネなどがずっと動揺して涙する中、その後は妙に冷静だったのが気になります。
何やら怪しい表情を浮かべているシーンもありました。
理由なども考えてるとやはり悼襄王を毒殺した犯人は舜水樹が妥当かなと思われます。
今後犯人が明かされることがあるかはわかりませんが。
さいごに
紀元前236年に崩御した悼襄王。
その死因は史実だと不明です。
ただキングダムだと毒殺のような形で最後を迎えています。
だれが悼襄王を毒殺したのか?
李牧一派の舜水樹の可能性が高いのかなとも思います。
ただ悼襄王を毒殺した犯人のことが作中で出てくるかは現在のところ不明ですね。