【キングダム】趙の悼襄王(とうじょうおう)は史実ではどんな王だったのか?

キングダムで趙の悼襄王(とうじょうおう)は暗君として描かれています。
悼襄王(とうじょうおう)は李牧にもあきらめられていますね・・・。
暗い・・・・・・あまりにも・・・。
と次の太子嘉が王になるのをもう期待していますからね。

ただ悼襄王(とうじょうおう)は史実ではどうなんでしょう?
本当に暗君なんでしょうか?

今回はその悼襄王(とうじょうおう)についてみていきましょう!

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キングダムでの悼襄王とは?

第九代目趙国の王。
先代の第八代目の王は孝文王。
悼襄王が即位したのは紀元前245年。


キングダムでの悼襄王といえば、そのクズっぷりが目立ちますが笑
悼襄王に仕える者たちはどのように思っているのか?


廉頗は・・・

悼襄王が即位した紀元前245年に廉頗は大将を剥奪されます。
その理由は廉頗に素行の悪さを諌められていたから。

廉頗はこれを拒否。
悼襄王は大将軍楽乗に五万の兵で廉頗討伐を命じます。
廉頗は楽乗軍を逆に返り討ちにし、楽乗と話した時に


バカの下で働くことほどバカなことはないぞ

結局廉頗は趙国を捨てて、魏に亡命してしまいます。
三大天の廉頗を追放するようなことをするとは・・・


李牧は・・・

李牧は斉国の王建と秦に訪れます。
政と謁見した時に政のことを心から尊敬している。

本当はあなたのような王に仕えたかった

と政に伝えています。


そして秦が趙の鄴を攻め込んでくる際に王都邯鄲に現れて、悼襄王と謁見しています。
李牧は邯鄲の軍十万の出陣を要請しますが、悼襄王は拒否。

邯鄲は簡単に陥落しない
いつかは陥落するかもしれないが、悼襄王自身が病で長生きできないため関係ない


この言葉に失望する李牧。

さらに悼襄王は鄴を秦に奪われたら、一族もろとも切り刻むと笑いながら答えます・・・。

⇒李牧の史実での最後は?


悼襄王は史実ではどんな人物?

廉頗が魏に亡命

趙国の王の孝成王は紀元前245年廉頗に魏への侵攻を命じる。
廉頗は繁陽城を攻め落とす。

しかしここで孝成王が崩御。
悼襄王が趙国九代目の王に即位する。

悼襄王はすぐさま廉頗の将軍職を剥奪される。
この決定に憤る廉頗は同じ趙の楽乗軍に攻め込み、これを撃破する。
廉頗はその後に魏に亡命した。


キングダムでもこのエピソードはありましたよね。
ほぼほぼ内容も同一です。
キングダムでも悼襄王と廉頗は不仲でしたが、史実でも不仲だったんですね。

廉頗を趙に呼び戻そうとするも郭開の策で失敗する

一度は不仲で廉頗を追いやった悼襄王ですが、魏に亡命した廉頗を呼び戻そうとします。
趙は廉頗と楽乗という優秀な武将を失ってしまいましたからね。
秦に狙われたのでしょう。

廉頗はこれを承諾。
しかし廉頗と折り合いが悪かった趙の郭開(かくかい)が使者を買収。
郭開の策で廉頗は趙に戻ることはなかった。

⇒郭開は趙を滅亡させた原因を作った人物?史実での最期とは?

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李牧を将軍に任命

李牧は当時は趙の北部にある雁門の守備隊長。
匈奴から趙の国境を守っていた。

紀元前244年その李牧を悼襄王は将軍に任命。
李牧は燕に攻め込み、武遂城と方城を陥落させた。


李牧が将軍に任に就くのが、キングダムと比べると史実ではだいぶ遅いですね。

龐煖を将軍に任命

紀元前242年悼襄王は李牧に次いで龐煖を将軍に任命。
燕軍二万と将軍劇辛を討ち取った。

キングダムでも燕の大将軍劇辛を討ち取ったエピソードありましたよね。

合従軍を結成させる

趙・楚・魏・燕で合従軍を結成。
秦の蕞に攻め込む。
しかし陥落させることはできなかった。

その後斉の饒安を陥落させる。


『史記』に記された記録は少なかったですが、史実でも合従軍は興り、秦の蕞を攻めています。
キングダムのように秦王が蕞に来て、民衆を奮い立たせたというようなことはないとは思いますが。

傅抵と慶舎を将軍に任命

紀元前240年悼襄王は傅抵(ふてい)と慶舎(けいしゃ)を将軍に任命。

傅抵を平邑に
慶舎を河梁に

それぞれ守らせています。


キングダムでは傅抵は合従軍の頃は三千人将。
現在はどの位置かはわかりませんが、史実では将軍になっています。

成蟜が趙に反旗を翻す

秦王の命により成蟜は紀元前239年趙に攻め込む。
成蟜は屯留を陥落させます。

しかし成蟜はここで反旗を翻して、趙に寝返ります。
秦王はこれを許さず、成蟜は討たれる。

魏が趙に鄴を譲渡

紀元前239年魏は趙に鄴を譲渡しています。

鄴と言えば、第二の都市!
そしてキングダムでは秦が現在鄴攻めを行っています。

鄴攻めは紀元前236年。
鄴が魏から趙に譲渡されてから、3年で鄴攻めは起こったんですね。

趙と斉の使者が秦を訪れる

紀元前237年に趙と斉の使者が秦を訪れます。

キングダムでは

趙は宰相李牧
斉は王建

が秦に訪れていますよね。

ただ史実ではこの使者が誰なのかは不明です。

燕への侵攻を命じる

悼襄王は紀元前236年龐煖に燕への侵攻をします。
総大将は龐煖。

龐煖は貍城・陽城などを陥落させています。
ただ史実では龐煖はこの燕を攻めたため、秦の鄴攻めに間に合いませんでした。

鄴陥落

紀元前236年王翦・桓齮・楊端和が趙に進軍。
趙の九城と鄴を陥落される。

キングダムでは現在この鄴攻めをしている真っ最中。
史実では秦の勝利で幕を閉じます。

悼襄王の崩御

紀元前236年悼襄王は崩御します。
えええええと思いますが、鄴攻めの都市に悼襄王は亡くなっているんですよね。

悼襄王が暗君だったかはなんともいえないところがあります。
李牧や龐煖を見出したりとむしろいい王だったように思いますが。
廉頗は追い出しましたが、連れ戻そうとしましたし。

ただ悼襄王の次の王である幽繆王は暗君というか出来の悪いというか・・・
悼襄王が王のままだったら、趙の滅亡はもう少し先だったかもしれません。


さいごに

キングダムだけみると悼襄王はクズ中のクズのような描写をされていますが・・・
史実ではそんなこともないような気がしますね。

ただ悼襄王は即位からたった九年で命を落としてしまいます。


キングダムでも悼襄王は鄴攻めの後に崩御しそうですね。
その次の王の幽繆王がどんな人物なのかも楽しみではあります。

⇒春秋戦国時代の戦国七雄の王の名前一覧

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