【キングダム】太子嘉は代王嘉に!弟の公子遷が趙国の王になる?

李牧から悼襄王から太子嘉の時代が来た時に趙に真の光がさすとまで言われている太子嘉。
太子嘉はキングダムではすでに登場しています。

キングダムでは当然次期王は太子嘉!
という流れになると思っている方が多いと思います。

しかし太子嘉は趙国の王になることができません・・・

今回はその太子嘉についてみていきたいと思います。

Sponsored Links

太子 嘉とは?

太子嘉は現王である悼襄王の子。
悼襄王の次の後継者候補。

すでにキングダムでも太子嘉は登場していますよね。
太子嘉の初登場はキングダム第517話。

鄴へ侵攻する秦軍。
王都邯鄲に来た李牧は王である悼襄王と謁見するために訪れました。

悼襄王と謁見後に初めて太子嘉が登場しました。




太子嘉は

兵の士気を上げに前線で矛を振る

とまで言っています。
悼襄王とは全く違った思想と性格の持ち主のようです。

太子嘉が次期王になれば、趙の滅亡は少なくとも伸びていたことでしょう。


李牧も太子嘉の時代に期待しているようでしたし。
それだけに次期に王になれなかったときは太子嘉だけじゃなく、李牧も絶望したでしょうね。

⇒趙の悼襄王は史実ではどんな王だったのか?


史実では趙王になったのは太子嘉ではなく公子遷?

現在の所、キングダムだけみていると次の趙国王は太子嘉かな?
と思う人がほとんどだと思います。

が!

史実では次期趙国王になったのは公子遷です!


公子遷・・・だれ?

となりますが、キングダムではまだ登場していません。
ただ実は史実では悼襄王は紀元前236年に崩御しています。

鄴攻めも紀元前236年です!
ということは鄴攻めの年に悼襄王は崩御しているため、鄴攻めの戦いが終わった後に何かしらのエピソードが描かれると思われます。

その時に公子遷も登場するでしょうね。


なぜ公子遷が趙王になったのか?

史実では・・・

Sponsored Links

趙王となったのは太子嘉ではなく公子遷


悼襄王の妻には

太子嘉の母親である悼襄王后
公子遷の母親である倡后

がおり、悼襄王の寵愛受けていたのは倡后。


悼襄王后と太子嘉は倡后に陥れられて

悼襄王后は后を
太子嘉は太子を

それぞれ剥奪されてしまいました。
完全に公子遷に王の座を奪われた形になりました。


そして新しく

倡后を后に
遷を太子に

取り立てました。

その後悼襄王の崩御の後に趙王になったのが公子遷(幽繆王)でした。


ただこの幽繆王・・・
李牧や司馬尚など有能な武将を次々と戦場から遠ざけてしまいます。

趙の滅亡は幽繆王のせいで早まったと考えて間違いないでしょう。

⇒郭開は趙を滅亡させた原因を作った人物?史実での最期とは?


公子遷が趙王に即位したときの李牧は絶望しそうですね・・・。


史実での太子嘉

太子嘉は一族を連れて、代国王を名乗る

紀元前228年李牧の後に趙軍を率いた趙葱(ちょうそう)・顔聚(がんしゅ)が王翦に大敗。
(李牧は紀元前229年誅殺されている)
王翦は趙の王都邯鄲を陥落させ、趙は滅亡した。


しかし戦いが行われている最中、太子嘉は一族を連れて、逃亡。
趙北部に代という独立国を作り、その代の王を名乗る。

代王嘉は燕と共に秦に抵抗

代王嘉は燕の燕王喜と手を結んで、秦に抵抗をみせる。
燕と代の連合軍は紀元前227年易水で秦軍と激突するが、敗北。

敗北後、代王嘉と燕王喜は遼東に逃れる。


燕は秦軍には勝てないと政の暗殺計画を目論む。
しかしこれが失敗に終わる。

秦は燕に侵攻するが、燕王喜は暗殺計画を企てた丹の首を差し出すことで秦と燕・代との戦いは一時休戦となる

代が滅亡・代王嘉は捕虜となる

紀元前222年王賁が遼東に侵攻。
燕を滅亡させる。


王賁はそのまま代にも侵攻して、代王嘉が捕虜となり、代も滅亡した。
これで趙の血脈も終わりを迎えた。


さいごに

悼襄王の後継者として、次期王になることを切望されているであろう太子嘉。
ただ実際に王となったのは太子嘉ではなく、公子遷でした。

悼襄王の崩御は史実では紀元前236年なので、この趙の王位継承問題は鄴攻めで終わったら、すぐに出てきそうなエピソードですね。

⇒春秋戦国時代の戦国七雄の王の名前一覧

Sponsored Links